11月5日 西日本レガッタに 日本漕艇協會澁澤東海支部長 (名帝大總長) の 「戰時下他地區競技會ヘノ出場ヲ不可トスル通達」 等々を無視、學校當局へも無斷で出場。
  ○ 豫選  @ 八 高 6分30秒  A 府立醫大 大差
  ○ 豫選  @ 京 大  不 明   A 岡山醫大 大差
  ◎ 決勝  @ 八 高 5分50秒  A 京  大  大差 
舵手布目治雄氏 (37回理) の回顧によると、「空襲警報の解除を待っての決勝レース」 をも制し、全國でもこれが戰時中最後の大會の優勝を遂げた。 之は又、漕手 今津 弘氏 (37回文) の回顧録によれば 「……正直のところ、勝利感より、ろくに食い物もないとき、よくレースができたなという驚きの方が印象的である。上級生は学徒出陣でクシの歯を引くようにぬけ、4月にはいった新入生主体のクルーだったが、菜っ葉や大根まじりのドンブリ飯で、速成ながら結こう実戦的な力をつけていたようだ。…」 といった状況下での勝利でもあった。
ENDE GUTE !  ALLES GUTE ! !
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◎ 學制改革に伴う最終のインターハイを、戸田コースのコースレコードで飾り優勝。8月8日  戸田コース 2000米
    豫 選  @ 三 高 7分11秒  A 一 高  差 3 L 
      は 實力未だしと見られた三高に名門一高豫想外の苦杯。
    豫 選  @ 八 高 6分50秒  A 二 高  差 2/3 L
              と 宿敵撃破し
1947 昭22  インターハイ ( 舊制 ) エイト  
      豫 選  @ 一 高  A 八 高 1 1/2 L
1946 昭21
   インターハイ復活に勇躍合宿練習再開するも、食料難のため出漕斷念。
8d
出艇準備 昭和21年夏 水船状態なれども船台はあり
1945 昭20  8月15日 大東亞戰爭 (太平洋戰爭) 終戰。
1948 昭23  7月對三高定期戰復活 
         7月11日 瀬田川 
     @ 八 高 7分11秒  A 三 高 1 1/2 L
8c
 決 勝  @八 高 7分10秒2 A三 高  差1艇身半
    と 堂々優勝。  掉尾を飾る。
     尚 豫選記録は戰後戸田のコース新記録。
8a
1949 昭24
   漕艇部活動は下之一色での學内組對抗競漕走
        他に訣別コンパもしきり 
1950 昭25   3月 旧制八高最後の卒業式 
8b
8e
 [ 陣 容 ] ボート部長 近藤康信教授 (14文甲)
     コーチャー 中川春好氏 (22回理 東大醫卒) 
      昭11年伯林五輪東大クルー三番手
      5尺7寸 ( 166 cm ) 17貫8匁 ( 66.8 kg )
     ( 当時の台秤では 8匁の計測は不能、800匁として、)
     コーチ補助 川村旋兒氏 (17回文)
      サブコーチ 安田治郎氏 (36回文)
           布目治雄氏 (37回理)
      マネジャー 土屋文安氏 (39回理)
  八高艇庫前にて      昭和23年7月23日
     当時艇庫は一色大橋上流1,000m附近の左岸にあり、
     これに隣接して下流側に名大艇庫があった。
予選  八高 対 二高  400m附近 手前が 八高
決勝 八高 対 三高  1600m附近 手前が八高
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1937 昭12
「全國高等學校競漕大會」 は、この年第八回大會から平張艇 ( シェルエイト ) に。
     @ 一 高     A 八 高  差 1L
      メンバーは B 2 3 4 5 6 7 S C
 大西周三氏 (29回理卒) 同期の川田祐之氏 (31回理卒) の代漕として果敢に力漕。
1938 昭13
庄内川松蔭公園北端に新艇庫完成 ( のち名大1号艇庫 )。南隣の名古屋醫科大學艇庫( のち名古屋帝國大學艇庫 ⇒ 名古屋大学ボート部艇庫2、3号艇庫 ) と共に、永く地元の中等學校、實業団の漕艇活動をも支えた。
1939 昭14
「高等學校競漕大會」 には三高が本格的に參入、4校でのレースとなる。二高優勝。
1940 昭15
     「高等學校競漕大會」 は二高連續優勝。
1942 昭17
「高等學校競漕大會」 は主催が 「學徒體育振興會」 となり、會場も、昭15年に開催が決っていたが大戰の爲中止となった東京五輪のために準備されていた戸田のオリムピックコースに變更された。3杯レースまで可能のプール型コースであった。この年が戰中最後の大會で、第2位に入った。
1943 昭18
明治神宮大會中止。全日本選手權 (インカレ) 中止。高等學校競漕大會 (インターハイ) など全國規模の大會は全て中止。縣域を越えての競技禁止通達などもあったが、漕艇練習は繼續された。
1944 昭19
エイト「紫 紺」 流失した大蟷螂橋の橋脚の水没部分に接觸沈没。漕艇部もまた、まさに滿身瘡痍の戰中時代を終える。
出艇準備 昭和23年夏 増水のため船台流失
艇庫より200〜300m下流で水に入って艇を浮かべる
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